シグナルは青年達に言われた通り、全速力で走った。
右手のカンテラがキィキィ言う音と自分の足音が、無音の街に異様に響く。
けれど、深く考えると怖くなりそうだったので、何も考えずひたすら走った。
見慣れた教会の前へ着いた時には、そんなに疲れる距離じゃないのに息が荒くなっていた。
何だか足も重い。
「ぎじくうかん」は多分魔法の1つだろうけど、聞いた事がない。
あの2人は教会の扉を開けて中に入れば戻れると言っていたけど、よくわからなかった。
わかっているのは2人がそう言った事と、それを信じるしかなさそうな事だけだ。
ここまで走って来る間、どの店も家も明かりは消えていたし、自分以外の誰かの気配も無かったから。
音があるといいな。ルーク牧師いるといいな。
階段を上がって両腕で扉を押す。
小さくキィ、と音がして、教会の床や机や椅子の木の匂いがした。
中にいた短い茶金髪の男性が、扉の音に驚いたように肩をビクリと動かし、祈る時のように両手を組んだまま振り向いた。
シグナルに気づき、疲労の色が見え隠れする笑みを浮かべる。
ルーク牧師だ。
「あぁ良かった! 無事だったんだね!」
シグナルはキョロキョロと自分の周りを確認するように見る。
うん、ちゃんと教会だ。
開けたままの扉の向こう、つまり自分の後ろの方には噴水があって恋人らしいカップルがいる。
街の窓のいくつかには明かりが灯っていた。
消えていた音もある。
気配もある。
何だか当たり前の事に安心するけれど、疑問が浮かんできた。
「あ、あの、ルーク牧師。お訊きしたい事が…」
「ん? あぁそうか! 説明をしなくてはいけなかったんだね。すまない、安心してしまって…ちょっとごめん」
そう言って、ルーク牧師は掛けていた眼鏡を外して、袖で拭いてしまう。
いつものルーク牧師の癖を見て、あぁここはあの人達の言っていた「元の空間」なんだと、また安心する。
ルーク牧師はシグナルを最前列まで連れて座らせて、その隣に座ろうとした。
が、扉が開いたままだと言う事に気付いて慌てて閉めに行き、そして戻ってくる。
ズレた眼鏡を両手で直すと、深呼吸をしてシグナルの目をじっと見た。
いつものどこか抜けたような表情と違って真剣だ。
シグナルは自然と姿勢を正す。
「まず、これを渡してから話そう。君の落とし物」
そう言って渡された物は、金糸の刺繍のある赤いリボン。
驚いて顔を上げたシグナルを制するように、ルーク牧師は手を挙げた。
「あのね、僕は細かい事は苦手だから率直に言おう。それと、これから言う事は、"一部を除いて喋ってもいい"らしいから」
喋ってもいいらしい、って何だろう。
シグナルは、わかったようなわからないような、曖昧な表情で頷いた。
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シグナルは「何だか今日は変な日だなぁ」と思いながら帰路についた。
ルーク牧師は事の始まりから教えてくれたけれど、それを受け止めるのは何だか疲れる。
自分が今日学校でぶつかった先輩は、実は人間に化けた悪魔(自分としては魔物の方がしっくり来る)。
その悪魔もとい魔物が、ぶつかった時にシグナルが落としたリボンを拾った。
そのリボンを探しにシグナルが学校へ来たら、「ぎじくうかん」とか言う場所へ転移させ(音が消えたりしたのはそのせいだとか)魂を喰おうとした。
「ぎじくうかん」に来たあの青年2人は、魔物が学校にいる事に気付いて学校を訪ねた人達。
訳あって名前は言えないが凄い人達らしい。
今日、学校が短縮になったのは2人がそうするように校長に掛け合ったからだそうだ。
そして夜、学校の付近に潜んでいた2人はシグナルが消えた事に気付き、シグナルが教会の扉を開けたら戻れるような魔法を施し「ぎじくうかん」へ行った。
らしい。
彼らはどうやって行ったのか訊いたシグナルに、ルーク牧師は
「ちょっと後ろ見て振り向いたら消えていたから、わからない」
と答えた。
ついでに2人との関係を訊いてみたら「古い古い知り合いなんだよ」と誤魔化された。
要約すると、魔物に魂を狙われたが助かったと言う事。
聖職者や魔女、ユニコーンの魂はよく狙われると聞いた事はあるけれど、それが自分になるとは思わなかった。
色々ありすぎて、何だか現実と思えない。
氷柱を見た時はゾッとしたけれど。
取り敢えず、助かって良かったのと、リボンが戻ってきて嬉しい。
これでオカリナに渡せると思うと、自然とニヤけてしまう。
自分はひどく危険な目に遭ったらしいが、オカリナにリボンを渡せると言う事を思うと、どうでもよくなってしまう。
石階段を上る足にも元気が出てきた。
ふと静かな風が吹く。
そして頭上から声。
「あれ、シグナルじゃねぇ?」
シグナルが見上げると同時に目の前に青年が降りてきた。
夜闇色と黒の長い髪がフワリと揺れる。
長く尖った耳に不思議そうにシグナルを見る金色の目。
目の前の精霊にシグナルは少し驚いただけで、すぐに挨拶する。
「シュバルツさん、こんばんは」
「よッス。お前何やってんだこんな時間に。駄目っしょ。いつもなら寝てる時間だろ?」
「え、何時ですか」
「もうすぐ20時」
「うわ、早く帰らないと…」
「おぅそうだな。で、何やってんだ? 俺は見回りなんだよ、何か空気が変でさー。魔物でもいんのか?」
シグナルは魔物と聞いて思わず答えそうになり、考える。
ルーク牧師に言われたのだ。
"魔物に狙われた事は、ご両親や友達、自分を大事に思ってくれる人になら言ってもいいけれど、他の人に軽々しく喋ってはいけないよ"
魔物に狙われた事をそうそう言うものではない事はよく解るので、シグナルは素直に頷いたのだ。
一瞬言おうか言うまいか迷うが、迷いはすぐ消えた。
シュバルツは、小さな頃からオカリナ達と一緒に遊んだ仲、友達だ。
それで充分。
黙ったシグナルを、シュバルツが心配そうに見た。
「どした?」
「魔物に狙われた所を知らない人に助けられたんです」
シュバルツの目が皿のように丸くなった。
耳がピンと立つ。
「うえっ、何それ。お前よく無事…あ、助けられたから、とか?」
「はい」
「ま、無事で何より…ってやつか。早く帰れよ、親御さん心配してっから」
頭をぐりぐり撫でられ、シグナルは苦笑する。
「いやあの、寝てるフリして抜け出してきたから、今頃寝てます」
「マジで!? うわ、悪ガキデビューじゃん。悪い奴だなー!」
シュバルツの目はそう言いながらも笑っている。
小さい頃は友達と一緒に色々やったと豪語しているからだろう。
シグナルよりずっと年上なのに悪戯好きだ。
と、笑っていた目がピタリと止まった。
「…助けられた、って誰に? この街に常駐のエクソシストいないだろ。あ、歩きながら教えてくれよ」
「はい。ええと知らない人なんです。僕、『ぎじくうかん』って言うこことそっくりな所へさらわれたんです。ウロウロしていたら知らない2人に助けられて」
シュバルツの目が真剣になった。
「疑似空間使う魔物なんかいんのか…。そりゃ助かってラッキーだぜ」
「どうしてですか?」
「大体の魔法使いが使いたくても使えない高等魔法でよ。創るのも破るのも難しいって評判」
魔具を使えばいくらかやりやすいらしいけどな、と付け加える。
「お前、最悪だとそのまま死んじゃってたかもしれねぇぞ。助けてくれた2人に感謝だな」
シグナルは驚きつつもあの2人に感心する。
若いのに凄いんだ。
と、シュバルツが肩を叩いてきた。
「な、な。どんな奴? どんな奴!?」
「どんな…って。シュバルツさんと同じくらいの年に見えましたけど…背も高くて」
あ、と思い出す。
「1人はエレナさんと同じ色の髪でした。顔の左側…左頬に黒い模様があって。僕、ジュエルビーストと会ったの初めてです」
「へーぇ…」
シュバルツの目がキラキラ輝く。
何か考えるような顔をすると、シグナルの肩に手を置いて身体を寄せた。
「あのさ、もう1人って俺よりでかくて髪黒い?」
「え? …えぇ。そうですけど」
「目は? 目!」
「サングラスかけていたから…」
「ほほーぅ。サングラスか…」
フンフンと頷くシュバルツをシグナルはじっと見る。
悪戯を思い付いた時のように生き生きとしている。
「………………………………………何か悪い事考えてません?」
「えっ!? いやぁ考えてねえヨ??? あっ悪いちょっとトイレ行きたくなってきたから、じゃあな! 気を付けて帰れよ!!」
シュバルツは両手をパチンと合わせて白々しく言うと、空高く飛んだ。
長い髪が月の光を僅かに反射して翻る。
シュバルツの姿はすぐに夜空に溶けて消えた。
「何か、変なの」
いくつかの星と月のある夜空を見上げたまま、シグナルは首を捻って再び帰路についた。
途中、雪が降り出したので、走って帰る。
あの音の無い世界と違って、今度はカンテラのキィキィ言う音も足音も気に障らない。
そして、なぜか起きていた両親に叱られ、ベッドに入ったのだった。
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