ミプロス城上空に、黒い風が渦を巻いて現れる。
風が消えるとシュバルツがそこに浮いていた。
弱い風に、長い黒髪が揺れる。
シュバルツは眼下にある図書館をじっと睨んだまま、ズズッと鼻をすすった。
「っきしょー、カルロの奴…怖い話嫌いだっつってんのによ。あー、やっぱ小せえ頃にちゃん付けで呼んでたのがマズかったんかな…?」
ハァ〜、と溜息をつくと、後方に広がる森へ目をやる。
図書館に入ってからずっと、森の方から強い気配を感じているのだ。
人間や、魔力がそれほど強くない幻獣は何も感じないが、シュバルツのように魔法に近い存在である精霊は敏感に感じ取る。
今までに何度も感じた、馴染みのある魔力の気配。
その魔力の気配以外にも、森からざわざわと騒がしい空気も流れてくる。
「んーと…あっち、か…」
そう呟くと、森の中へ飛んでいく。
++++
ミプロスは周囲を森に囲まれていて、その森は隣国のラインハルトと繋がっている。
その森は広大で、動物だけでなく幻獣や魔族も棲む豊かな森だ。
冬の今は澄んだ静けさを持っているその森の奥を、シュバルツはじっと見つめていた。
目当ての者がそこにいるのが解る。
森は一見静かだが、空気がざわざわと賑やかだった。
奥の方から感じる力は何やら不安定。
その不安定なものはとても大きくて、森の奥へ進んでいくにつれその気配はどんどん強く、濃くなる。
シュバルツは何かに気付き、ぴたりと宙に止まった。
ふわりと風が吹いて、風精霊の女性が1人現れる。
空気を通して感じる魔力は強く、高位精霊とわかる。
彼女はシュバルツを見て、小さく「あら」と言った。
「あなた、闇の長?」
「あぁ。あんた、風だろ? 何してるんだ?」
「喚ばれたのよ。全く、私1人にやらせるなんて…精霊使いの荒い奴だわ」
「喚ばれた? 誰に…」
シュバルツが怪訝そうな顔をする。
それと同時に風精霊の向こう、森の奥から1羽のカラスが飛んできた。
目は普通のカラスと違い金とエメラルドだ。
枝に止まるとシュバルツをじっと見る。
目の色で誰かわかり、シュバルツは自分の勘が正しかった事を知る。
こんな目をした存在は1人だけだ。
「よ、久しぶり。ロゼ」
「あら、知り合いなの?」
風精霊は枝に止まったカラス…ロゼウスを見る。
ロゼウスはぱちりと瞬きをすると、シュバルツの顔付近に垂れていた枝へ飛び移って風精霊を見た。
「あぁ。悪い、もう少しだけ見張りを頼む」
「はいはい」
風精霊は溜息混じりに返事をして消える。
シュバルツが見るとロゼウスは翼を広げて飛んだ。
「オイ。何しに…」
「こっちに来い」
それだけ言って奥へ飛んでいくので、シュバルツはやれやれと言いたげな顔で後に続く。
奥へ行くにつれ、気配は強くなり、軽い耳鳴りもする。
一本だけポツンとある枯れ木の横をロゼウスが飛んで抜けた時、周囲が水面のように揺れた。
(…お、結界)
ロゼウスが通るまで結界の気配など、欠片も感じなかった。
発動するまで誰にも悟られないなんて、相変わらずのテクと無言で感心する。
ロゼウスの後に続いてシュバルツが枯れ木の横を抜けると、数メートル先に巨木があり、巨木のゴツゴツした根本にシリウスが座っていた。
だが、様子がいつもと違う。
ぐったりしているし、白銀だった髪は黒く、目は青から緑に変化したり金色になったりと、ユラユラ変化している。
シリウスの横にはロゼウスが、シュバルツは手前に降りる。
今は雪がちらちら降っている筈だが、結界の影響か、ここまで降ってこなかった。
「あそこの木が枯れてんのってお前?」
「…うむ。精気を少し…頂戴した……」
シリウスが小さい声で答え、目を閉じる。
ひどくボンヤリしているようだ。
シュバルツはシリウスを見て頭を掻く。
「『変化』って年に何度だっけ?」
「年に1回。予想では2月だったんだけどな…早まった」
ロゼウスがカラスから人型に戻り、シリウスの額に触れる。
その時、黒くなっている前髪の下に赤黒い痣がくっきりと浮かび上がった。
シリウスはロゼウスの手の冷たさが気持ち良かったのか、目をうっすら開ける。
目は変色する事なく金色に定まっていた。
しばらくすると左頬の痣がスゥッと消える。
幻獣のシリウスから、魔王バハムートへの完全な変化。
それだけで、森の空気が一瞬ざわつく。
魔王の登場に、魔族が喜んだらしい。
「相変わらずの熱烈歓迎…すげぇな。大丈夫か?」
「あぁ、まぁ…しかし、いつになったら、『これ』が終わるのかわからん…」
ざわつきを聴きながら言う言葉には疲れがある。
高校時代に『変化』の様子を年に1度、計3回見たシュバルツはその大変さを少し知ってる。
魔王になる事は「力」の継承だ。
「器」に「力」が入って「魔王」になる。
けれど力に適応するのに時間がかかるため、生まれて数年後から定期的に力を受け入れるための「変化」がある。
「変化」を迎えると、風邪に似た症状が出て1日中ダウンだ。
熱は出るわ魔力が抑えられないわで、周囲に与える影響がデカイ。
だから魔族がいてもおかしくない森の奥に引っ込んで、周囲に結界を張って1日大人しくしている。
そうすると突然森に魔王がやって来た事に、森に棲んでいる魔族が騒ぐ。
それは幻獣や魔法使いなら敏感に感じるが、森の周囲に住んでいる勘の良い人間は「何か変だな」としか思わない。
(それを毎年1回…しかもいつ来るかわかんねぇとか、メンドクサ…)
今のシリウスは年に1回インフルエンザにかかるようだ。
定期的、と浮かんだシュバルツはふと思う。
「年に1回かぁ…何か生理みてぇ」
「「おい」」
シリウスと目の据わったロゼウスが同時に呟く。
ロゼウスの方から物凄い気配を感じてシュバルツは慌てて謝った。
「じょ、冗談冗談、ゴメンナサイ。そーか、『変化』してたからお前ら城に来ても挨拶無しで帰ったんだな!」
「シュバルツうるさい」
「わ、悪いロゼ。……で、さ。お前らが城に来たのは何となくわかったんだけどな、何しに来たんだ? 世界会議でもないだろ?」
黙っていたシリウスがロゼウスをちら、と見、ロゼウスが軽く頷いて質問に答えた。
「昨日、国立高校に魔物が入り込んだだろう」
「おう」
「それが事前にわかったから、一昨日入国したんだ」
「えっ!」
驚きの声を上げるとロゼウスにジロリと睨まれた。
静かにしろと言う意味だ。
変化中のシリウスに大声は苦痛、シュバルツは手を軽く上げて謝る。
「お、おととい?」
「予知した…」
シリウスの力無い声にシュバルツはナルホドと頷く。
シリウスは一言だけ言うとすぐに目を閉じてしまった。
「そう言やお前、予知とか出来るもんな。でも一昨日? 昨日じゃなくて? オカリナ達が一昨日も『エグザ』行ったらしいけど、俺、何にも感じなかったぜ?」
オカリナとカルロ、それから今の2人と一緒にチョチョコリーナを守護しているシュバルツは、3人の周囲で何かあると感じられるようになっている。
それが物理的であれ魔法的であれ。
「周囲に影響が出ないように、魔力を抑えたからだろ。そこらの魔法使いに悟られると面倒くさい。それでだ、一昨日入国して学校の周囲を巡回していたら、昨日魔物が出た」
「あ、それシグナルが襲われたヤツだよな。ってそうそう! お前らが助けたのってユニコーンの子だろ?」
「……あぁ、茶色い髪の?」
「そうそう。シグナルから話聞いてよ、あーお前らかなぁってカルロと俺はピンと来たんだ」
「…………シグナル、って言うのか」
ロゼウスの言葉にシュバルツはキョトンとする。
「名前知ってんじゃなかったのか? 助けに行った相手だろ?」
「興味なかった」
「……ヲイ」
「疑似空間に入る扉を教会に作った時に、旦那から『ユニコーンの少年が転移させられた』って聞いた。それで充分」
無視か。
「………相変わらずだなお前ってば」
「何が」
「何でもねェよ。よし、じゃあ変化終わったら城まで挨拶に来いよな。カルロとチョチョコリーナ、でっかくなってんだぜ。…で、魔物は?」
最後の所は、やっと聞き取れるほどの小声で問う。
魔物をひどく憎んでいるシリウスの前で魔物の事を大きく訊くのは気が引いた。
ロゼウスの目が僅かに動揺する。
「即、消滅させられた」
「…そっか」
「おい」
突然話しかけられ、2人は会話を聞かれたのかとギョッとする。
と言っても目に見えて驚いたのはシュバルツの方だ。
長い耳をビクンと跳ね上げて振り向いた。
ロゼウスは目を少し丸くしたが、すぐに何でもないような表情で振り向く。
シリウスは疲労の色は見えるものの、意識はハッキリしているようで、2人をじっと見ていた。
「シュバルツ…クリスマスは暇か?」
「あぁ、うん。てゆーか、精霊は基本的に暇だぜ? クリスマスよりハロウィンのが俺らにとっちゃお祭りだし。それが?」
「クリスマスに魔物が来る。それで…」
「ハイッ?」
シュバルツは耳が変になったかと思う。
クリスマスに魔物?
聖夜とか言われている日に?
「え…何。それは…予知した、のか?」
「…うむ」
「実は国立高校に魔物が出たせいで、他の所にいた魔物が引き寄せられてきてる」
「ぇー」
「ぇー、じゃない。とにかく、魔物が集まる日が嫌な事にクリスマスだ。この件、最後は旦那と俺で対処する。でもな、街…いや、国全体を守る必要があるから、手伝ってほしい」
ロゼウスの言葉にシュバルツは目を丸くする。
「お、俺が?」
「いや、サリレイとセイレムも来ているから5人で」
「えッ、何!? アイツら来てンのか!?」
シュバルツが嬉しそうな声を上げて笑顔になる。
が、大声を出したためにロゼウスが怒って殴る構えになった。
慌ててシリウスを見ると、うるさかったのか顔をしかめて頭を押さえている。
うるさかったらしい…と言うか頭に響いたようだ。
「わ、悪い…」
「…かまわん」
(いや、かまうって顔した奴がいるんですけど…)
ロゼウスがシリウスの様子を見てムッとしていた。
長身とオッドアイが手伝って怖く見える。
長年の付き合いで長身やオッドアイに慣れても、怒りの表情は怖くてたまらない。
普段怒る事がないと言うのと、シリウス関係で怒らせると鬼になると言うのが原因でもあるからだけど。
昔、シリウスを襲い怪我させた刺客の右腕を、ためらいなくボキリと折った事がある。
誰かが止めに入らなければ息の根を止めていたかもしれない。
普段の大人しさからは想像出来ない事だった。
シュバルツはロゼウスの方を極力見ないようにしながら、気になっている事を訊く。
「あの…俺は何すりゃイイ?」
「…あぁ…クリスマスまでは、私が結界の役割をなす雪を降らせておくが…これは魔物避けで、既に国内にいる魔物には効果がない。だから…クリスマスまでに国全体に結界を張る『楔』を打つ事と、26日になるまで国内の監視を…」
シリウスがそこまで言うと、シュバルツの長い耳が、ダラリと下がった。
「えー!? めんどくせーよ!!」
シュバルツの大声に、シリウスが小さく呻いて目を閉じた。
しまった。
大声出しちまった。
シュバルツがそう思ったのと同時に、ロゼウスの鉄拳が光速でみぞおちに飛ぶ。
熱と疲労でぼんやりとした意識の中、シリウスは「ドサッ」と言う音を聞いた気がした。
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